北京に生きる日本人残留孤児 渡部宏一さんの物語

2018-07-04 16:35  CRI

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宏一さんを囲む中日交流カフェ担当の劉非と梅田謙

山形での暮らし

 1935年8月20日の早朝、山形県東置賜郡高畠町和田村のある農家に、一人の男の子が生まれました。渡部延雄さんの長男、宏一さんです。

 父・延雄さんはとても忙しく、宏一さんが幼い頃は、いつも母親と一緒で、母親の実家で育てられました。

 その、宏一さんのお爺さんの家は、広さが十分にあって、居間の真ん中には囲炉裏があり、昼はその上でお湯を沸かしたり、ごはんを作ったり、夜になると、家族みんなが囲炉裏を囲んで眠りました。夏休みになりますと、母親の妹たちが宏一さんをキャンプに連れ出しました。野原にテントを張って、味噌汁を作ったり、夕食を食べたりしました。そして、夜になると、満天の星空の下で水のせせらぎを聴きながら、林を舞うように飛ぶ蛍を観賞したのでした。

「王道楽土」の満州へ~召集された父

 ところが、穏やかな生活は長くは続きませんでした。1940年の秋、5歳になった宏一さんの一家5人は、荷造りを急いでいました。満州へ向かう準備です。父・延雄さんは「王道楽土」の夢を信じて、お爺さんの忠告を聞き入れず、妻と3人の子供を連れて、満州への旅に出ました。当時、日本の国策によって満州に渡った日本人開拓民は、30万人近くにのぼったとされています。

 満州に到着した宏一さんは、1942年に開拓団の小学校へ入学します。それからときどき、満州での生活や家族の近況などを手紙に書いて、自分を可愛がってくれた山形のお爺さんに報告していました。

 ところが、1945年の初めごろから、開拓団には重苦しい空気が漂うようになりました。関東軍からの通達で、宏一さんの暮らす開拓村からは、2名の男性が召集に応じるようにとの命令が下ります。そして、宏一さんの父・延雄さんが召集されることになったのでした。延雄さんは関東軍に加わった後、家族に宛てて一通の手紙を送っていますが、それきり消息を絶ち、とうとう帰ってくることはありませんでした。

图片默认标题_fororder_渡部家の家族写真。母親に抱かれているのが宏一さん

渡部家の家族写真。母親に抱かれているのが宏一さん

ソ連参戦~逃避行の日々が始まる

 1945年8月8日深夜、旧ソ連は日本に宣戦布告。そして、翌9日未明、150万を超える兵員と5000台の戦車、そして5000機の航空機で満州へ攻めてきました。旧ソ連軍は重戦車や連発可能なロケット砲など、すさまじい火力で日本軍を圧倒しました。これを受けて、関東軍は開拓民を残したまま撤退し、8月16日の終戦の翌日、開拓団の人々の逃避行が始まったのです。

 それは宏一さん一家も同様でした。夜中に近所の人に起こされ「早朝から避難に出ますよ。急いで仕度をしてください」と知らされました。そして、母親が牛車を用意し、生活用品などを載せると、宏一さんら兄弟4人を連れて出発しました。逃亡生活の始まりでした。

 開拓村の牡丹江市から南の瀋陽までの道のりにおいて、当時10歳だった宏一さんは、近所に暮らしていた2歳の子供の餓死に始まり、自身の妹の失踪、さらには、母親、そして弟との死別など、悲惨な体験をしました。当時の様子について、彼はこう振り返ります。

 「私は、張作霖が爆弾で殺害されたあの皇姑屯駅で、死体の山を見ました。冬のことでした。その死体たちは、ほとんど裸でした。つまり、死体の服さえも奪われていたのです。死体の山は路上にありましたが、そこを通りかかる人たちは全く気にしない顔をしていました。私たちがいた瀋陽の難民収容所では、ほとんど毎日、人が死にました。死んでしまうと、すぐに車でどこかへ運ばれていきました。私の母親もその難民収容所で死んでしまい、どこに埋葬されたのかは、今でも分からないままです」

中国人の養子となる~高校進学の説得

 生と死の岐路に立った宏一さんは、幸いにも「王殿臣」という名の中国人に養子に取られ、命を助けられました。中国人の養父母は彼に「王林起」という名前を与え、宏一さんはその家の長男として大事に育てられたのでした。

 1948年の秋、宏一さんは小さな商売をしていた家族と共に北京へ移住しました。そして1949年の新中国成立後、優秀な成績で北京の小学校を卒業し、中学校に入学しました。中学卒業後、彼はできるだけ早く養父母の負担を減らしたいと、就職を強く希望しました。ところが、成績があまりにも優秀であったため、学校の先生たちは「彼を高校に進学させないのはもったいない」と、何度も家庭訪問をして、宏一さんの養父母に進学の許可を求めたのでした。その説得の結果、宏一さんは高校に進学することになりました。

图片默认标题_fororder_現在暮らしている北京の部屋に飾られた油絵。宏一さん自身が江ノ島の風景を描いたもの

現在暮らしている北京の部屋に飾られた油絵。宏一さん自身が江ノ島の風景を描いたもの

二度命を救われて~工場就職

 ところが高校2年生の時、宏一さんに再び命の危険が訪れました。腹膜炎で入院し、三回の手術を受けたのでした。手術の甲斐あって、宏一さんは快復しましたが、その治療費を支払うため、養父母は貯金の三分の二を使ってしまいます。当時のことを振り返り、宏一さんはこう語ります。

 「当時は、入院する場合、治療費は全て自己負担でした。今のような健康保険などはまだなかった時代です。治療費は二、三百元ほどかかりました。今なら全然大した金額ではないのですが、当時の養父母にとっては莫大な金額でした」

 自分の命を二度も助けてくれた養父母に恩返しするため、彼は高校中退を決意し、火力発電ユニットを製造する「北京蒸気タービン発電機」工場に就職し、グラインダー技術を学び始めました。

 当時工場の指導者だった周鶴良さんは、宏一さん、つまり「王林起」さんの働きぶりを次のように評価しています。

 「彼はうちの工場の中でも腕の良い技術者でした。当時、事業発展のために先進的な発電設備の導入が必要だったのですが、外貨がなく実現できませんでした。そのため、自主的に設備の研究開発をしなければなりませんでした。その時にも、王さんは新設備の研究開発に積極的に参加し、主導的な役割を担っていました。彼は優れた技術を持つと同時に、とても勤勉です。工場でよく無償で残業をしていましたし、本職以外の活動でも率先して参加し、活躍していました。彼は、共産党やこの国、そして工場を愛する、わが労働者チームの優秀な代表であったと思っています」

40代にして生まれた望郷の念~町長からの手紙

 1972年の中日国交正常化以降、多くの残留孤児が外交ルートを通じて日本に戻っていきました。しかし、中国の家族と仕事に恵まれていた宏一さんは、日本に帰国して親族を探そうというつもりは全くありませんでした。

 その気持ちに変化が表れたのは、1980年代に入ってからでした。40代になっていた宏一さんは、高校時代の親友である呉樹仁さんから、彼のアメリカにいる親戚たちの話を聞きます。その時初めて、日本へ戻って、故郷の様子を見てみたいという意欲が湧いてきたそうです。

 「『日本にまだ親戚はいるのか』と親友が私に尋ねました。『いるよ』と私は答えました。すると彼は『その親戚は、君たち一家が今どうなっているだろうと、ずっと心配しているはずだ』と言いました。それまで一度も、考えもしなかったことです。『そうかなあ?』と首を傾げる私に、彼は「君たち一家6人がふるさとの山形を離れてから、なぜ今になっても一人も帰らないのか、消息すらないのだろうかと心配してくれる親族がきっといる。君はご家族に起きた出来事と今の状況を、親戚たちに伝えるべきだ」と、私に強く言い聞かせました」

 それから宏一さんは、小学校の頃に山形に住むお爺さんに出した手紙の住所を思い出して、ふるさとの村長に宛てて中国語の手紙を出しました。

 二、三週間が経って、日本から返信が届きました。手紙の内容について、宏一さんはこう話します。

 「返事をくれたのは町長さんでした。中国の行政区でいうと“村”の上の“郷”に相当するものに変わっていたのだと思います。町長さんの手紙の冒頭には『大変ご苦労様でした』と書かれていました。そして、父親と母親のそれぞれの親戚のうち、健在の方々の名前と住所を全て教えてくれました。最後には、『どうぞ、ご親族のみなさんと直接連絡をとってください』と書き加えられていました」

日本への帰国~工場が与えてくれた破格の待遇

 連絡が取れると、宏一さんは出国手続きなどの準備を始めました。

 「日本へ帰るために、およそ2年かけて準備をしました。まず、私個人としては、少しずつ日本語を勉強しなければなりませんでした。それから、日本側にも、しなければならない用意がいろいろとありました。なぜなら、我が家の戸籍は全て取り消されてしまっているので、親戚を通じて、渡部宏一という人間がまだ健在であることを確認してもらう必要があります。それには、地元の裁判所による身元調査が必要ですので、こうした手続きが完了するまでには時間がかかるのです」

 宏一さんの日本行きに、彼の職場は深い理解を示しました。勤務先の工場は彼の出国が実現するように様々な便宜をはかり、特別な待遇を与えました。さらには、北京ダックの老舗レストラン「全聚徳」で盛大な壮行会を開いてくれたのでした。

 「工場の指導層は、私に対して500元の出国手当を支給する決定をしました。当時の月給が40.1元だった私にとって、500元は年収を超える大金でした。しかも、普通なら、一般職員の出国手当は300元です。私は、500元という幹部クラスの出国手当の待遇を特別に受けたのです。しかも、帰省を終えて工場に復帰した後は、日本にいた1年2カ月分の給料が全額支給されました。これはたぶん、世界中でも前例のないことだろうと思います」

 1981年5月20日、空港で中国の家族や同僚たちに見送られた宏一さんは、実に41年ぶりに山形の故郷へと向かいました。

中国への“帰国”~「恩返し」のために

 それから宏一さんは親族を訪ね、1年2カ月にわたって日本で過ごしました。山形の親戚から温かく迎えられ、中国より収入がずっといい仕事も紹介されましたが、宏一さんはこれを毅然と断り、北京に戻って、職場に復帰しました。

 その理由について、彼はこう語ります。

 「理由は二つ挙げられます。一つ目は、私の命を二度救ってくれた養父母に恩返ししたかったから。二つ目は、社会主義や共産主義の社会建設のために、身を投じたかったからです」

 これについて、宏一さんの同僚で、親友でもある王立縁さんは

 「彼は『恩返し』という中国の伝統的な思想の深い影響を受けています。それは私の、彼に対する印象でもあります。彼は、お世話になったすべての人のことをいつまでも覚えていて、またできるだけ恩を返したいと考えているのです」

 また、当時工場の指導者であった周鶴良さんは、宏一さんの帰省をこう振り返ります

「彼が日本へ帰省した時、きっともう帰ってこないだろうと思いました。でも、彼は戻ってきました。それを見た周りの人たちは『ええっ、なぜ戻ってきたんだい』と、とても不思議がっていました。なぜか、それは彼が中華人民共和国に対して、とても深い感情を抱いているからだと私は思っています。重要なのは、彼は北京に戻らなくても、日本で簡単に就職できたはずだという点です」

中国へ帰る~「恩返し」のために

 日本人残留孤児・渡部宏一さんの劇的な生涯は、周りの人々に大きな感動を与え、ある時、「是非一冊の本にしてほしい」という提案がされました。其れを受けて、宏一さんは2014年から『中国における75年の残留孤児自伝』の執筆を開始しました。かつての同僚や北京日報の作家・陳援氏の協力と支援の下で、同書は2015年に北京西苑出版社から正式に出版され、翌年の2016年4月に、北京の王府井書店で初発行式が行われました。

 悲惨な過去と深い恩義、血と涙で綴られたこの本の前書きに、宏一さんはこのように書いています。「この75年間、わが養父母をはじめとする善良かつ寛容な中華民族という大家庭の中で、私は手厚い恩義を受け、今は幸せな老後生活を送っている。私には二つの祖国がある。一つは中国、もう一つは日本だ。この本の出版を通して、戦争によって被った苦痛と今の平和の大切さを後世の人々に知ってもらいたいと願うと同時に、中日両国の友好が末永く続くよう、心から祈念するものである」

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7月16日放送分
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